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About Me

髙橋 幸平(たかはし こうへい)

生年月日:平成12年10月18日 23歳

本籍地 :岩手県一関市

出身地 :岩手県紫波郡矢巾町

所属  :株式会社コムニコ( comnico inc. )

障害の状況:脳性マヒのため生まれつき右半身が不自由です。スキー競技ではLW-9/2という障害度クラスです。

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​出身校

2007-2012 矢巾町立矢巾東小学校

​リハビリを兼ねて色々なスポーツに挑戦しました。水泳、少年野球、スキーなど。

高橋幸平 野球

2013-2015 矢巾町立矢巾北中学校

​ハンドボール部に所属しました。レギュラーを目指して本気で取り組みました。

高橋幸平 ハンドボール

​2016-2018 岩手県立盛岡農業高校

​松浦高行先生のもと、本格的に競技スキーに取り組みはじめました。2年生のとき2018平昌パラリンピックに初出場しました。

高橋幸平 盛岡農業高校

​2019-23 日本体育大学

​オリンピックに出場する強豪選手も集う環境で、パラリンピック上位入賞を目指して強化を始めました。

高橋幸平 日本体育大学

​エッサッサは日体大の応援スタイルであり精神的土壌。この動画に幸平はでていませんが、日体大男子学生なら全員演じることができるのがエッサッサ。

スキーを始めたきっかけ

高橋幸平 矢巾ジュニア

『両親に連れられて幼稚園の頃にスキーを始めました。

 小学校のスキー教室で地元の矢巾ジュニアスキーチームの先生に誘われて、同チームで練習をするようになりました。

 中学校では部活動(ハンドボール部)の練習を第一としたうえで、ナイター練習など部活動と重ならない時間をみつけて練習を重ねました。

 中学1年生のとき、リハビリを担当して頂いていた療育センターの先生のお誘いで岩手チェアスキークラブの集会に参加しました。そこに参加していた元パラリンピアンの四戸龍英さんや、療育センターの先生が、障害者スキー連盟に私のことを紹介していただいたことにより、ジャパンパラアルペンスキー競技大会の前走(選手の滑走前に試走する役割のこと)をするチャンスを得ました。

 私はそこで障害者スキーの存在を知り、トップ選手の滑りを見て、あこがれを抱きました。スキーの練習にも熱が入り、入学した盛岡農業高校ではスキー部に所属し、顧問の松浦先生のもと本格的にスキー競技に取り組んだ結果、日本障害者スキー連盟のナショナルチームに選んでいただき、現在に至ります。』

あしあと

高橋幸平

​2015 中2 菅平バインビークスキー場 合宿体験参加

高橋幸平

​2017 高1 白馬八方尾根スキー場 ジャパンパラ

高橋幸平

​2020 大1 菅平バインビークスキー場 ジャパンパラ

高橋幸平

​2021 大2 菅平パインビークスキー場 ジャパンパラ

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​2023 大4 菅平パインビークスキー場 ジャパンパラ

戸来先生、岩手チェアスキークラブのみなさんと

高橋幸平
岩手チェアスキークラブ

​岩手チェアスキークラブのみなさんと。あれ?幸平はどこ?

岩手チェアスキークラブ

​いた~

戸来先生は都南療育センターの担当の先生です。幸平はもちろんのこと、それ以上に私達両親がお世話になりました。どうやって幸平を育てていこうかと不安に押しつぶされそうになるなか、どれだけ助けていただいたことか。

その戸来先生にスキーを教えていただくことになりました(1枚目)。写真に残っていないのですが、装具作成メーカー勤務の高野さんにもスキーを教えていただきました。

どうやらそこそこ滑ることができると知っていただいた後、盛岡チェアスキークラブの講習会で一緒に滑ろうとお誘いいただいたのが、2、3枚目の写真です。そこに青森県野辺地出身のチェアスキーヤーでありパラリンピアンである四戸龍英さんも来ておられ、幸平のことを知っていただきました。

戸来先生や高野さんなのか、あるいは四戸さんや盛岡チェアスキークラブの会長さんなのか、私達両親の知らないところで多くの人の善意により幸平の存在は中央競技団体である障害者スキー連盟の人に知られていくようになったようです。

矢巾ジュニアスキーチーム

矢巾ジュニアスキー
矢巾ジュニアスキーチーム

​岩手の小学校ではスキー教室があります。幸平はそこで矢巾町スキー協会の昆さんに引率していただきました。昆さんは矢巾ジュニアスキーチームのコーチをされており、お誘いを受けてきょうだい3人で矢巾ジュニアに入れてもらうこととなりました。

代表の佐々木さんは、競技出身でもありますが、それ以上に岩手の基礎スキーの世界では知られた人で、本当だったら私(幸平父)などはお近づきになれない地位の方です。でも気さくなお人柄で佐々木さんを慕って集まる人も多く、私達家族もお仲間に入れていただくこととなりました。

「矢巾ジュニアスキーチーム」が「矢巾ジュニアレーシング」でないのは佐々木代表の考えです。佐々木代表はスキーを生涯スポーツとして普及していくことを理念とされている方で、子ども達に対しても「勝利至上主義」ではなく、「スキーを好きになってもらうこと」を第一に指導をされます。私(幸平父)は、子どもの幼少期のスポーツ活動をスパルタ式の指導者にゆだねるつもりは全く無かったので、佐々木代表に指導していただくのは大変幸せなことでした。

写真は、レース初心者が参加する大会として大変優れているIATジュニアカップのインスペクションの様子です。1枚目に写っているのが当時の矢巾ジュニアのメンバーで、今に比べると随分大勢です(フラッグの陰に隠れている黄色のウエアが幸平)。佐々木代表、昆コーチのほか、父兄サポートも写っています。2枚目の引率が佐々木代表。楽しい思い出です。(矢巾ジュニアは現在も活動中!!メンバー募集中です!!)

全国身体障害者スキー大会

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​矢巾ジュニアでスキーの練習を始めた幸平。でも、当時はスキー競技を本格的に行うつもりはなく、普通にスキーを楽しんでいました。そのような時、障害者スキー競技の大会参加に導いてくださったのが白藤先生です。

白藤先生は、幸平が通う療育センターで、直接の先生ではありませんでしたが、よく声をかけてくださり、色々と面倒をみてくださった方です。先生はご自身も幼少時のケガで手先を切断してしまったのですが、野球の名選手であり、療育センターで幸平にキャッチボールを教えて頂いたりしていました。

その白藤先生と一緒に参加したのが、山形県の赤倉スキー場で開催された全国身体障害者スキー競技大会です(一番上の写真。ちなみに、この赤倉大会の実施体制は、現在にいたるまでの健常者の大会も含めた中で間違いなくトップと言える素晴らしいものでした)。矢巾ジュニアではスラロームの練習をしたことがなかったのですが、急遽SL板を買い、にわか練習して参加したという思い出があります。

この時の大会は白藤先生の圧勝だったのですが、幸平は4位に入り、幸平の心の中に障害者スキー競技の存在が大きく意識されることとなった、大切なきっかけとなりました。

白藤先生のことはもっと早く紹介したかったのですが、当時の写真が残っておらず、紹介がおくれてしまいました。上2枚の白藤先生の写真は令和5年3月に安比高原スキー場で開催された全国身体障害者スキー大会での様子です。実は、白藤先生は凄く早い選手で、健常者の県民体育大会に出場して普通に表彰台を狙える実力の持ち主です。ワールドカップに出場しても間違いなく良い成績をとれると思うのですが、ナショナルチームに所属してワールドカップを転戦するということは年の半分以上は日本にいられないことを意味するので、ご家庭のある先生には現実問題として難しいところです。残念なことこの上無いです。

矢北ハンドボール部

高橋幸平 ハンドボール
矢巾北中 ハンドボール
高橋幸平

​”中学で、幸平はハンドボール部に所属したいと言いました。長男が所属していて、全国大会が現実的な目標である矢巾北中のハンドボール部のことはよく知っていたから大反対しました。
片手でどうやってあの高速パスを受けるのか、ケンケンすらできない足でどうやってジャンプシュートを打つのかと。ですが、幸平は折れてくれませんでした。そこで、たとえスキーの練習のためであってもハンドボール部の練習を休むことを許さない、という条件をだしました。これは、私自身が矢巾北中のハンドボール部に誇りをもっていて、他のスポーツのために腰掛的に取り組むことを許せなかったのと、こう言えば諦めてくれるかもしれないと思って出した条件だったのですが、幸平は約束してハンドボール部に入部しました。”

ここまでは別項からのコピーなのですが、簡単に決めることが出来たわけではありません。ハンドボール競技はマイナーなためあまり知られていませんが、とんでもなく激しいスポーツです。迷いに迷う私に、顧問の正道先生が「俺に預けてみてください」と言ってくれました。長男が所属していて正道先生に絶大な信頼を寄せていたので、その言葉が後押しとなって入部することとなったわけです。

正道先生のご指導のもと、幸平は熱心に取り組みどんどん上達していきました。幸平は意外と運動神経がいいのですが、その基礎は正道先生に鍛えてもらったおかげと確信しています。

矢巾町はハンドが盛んです。幸平の矢巾北中とライバル校の矢巾中はお互いに全国大会に進むための壁となります。正道先生門下の菅原由香先生率いる矢巾北中、同じく正道先生門下の酒井めぐみ先生率いる矢巾中はその後激烈な死闘を続けることになります。

幸平には幸平含めて3人のきょうだいがいるのですが、3人ともハンドをしてくれたのは宝くじに当たった並みの幸運でした。だって阪神巨人戦9回裏大逆転みたいな試合を9年間どっぷり間近で応援できたものですから。

盛農スキー部

高橋幸平 盛岡農業高校
高橋幸平 盛岡農業高校

​松浦高行先生は正に恩師というべき存在です。

幸平は、高校を卒業して他の人のアドバイスを受ける機会が増えたわけですが、そのような機会が増えれば増えるほど松浦先生が言っていたことの正しさが分かるようになったと繰り返して言います。私も松浦先生に学ばせていただきました。スポーツ選手は接遇面で意外とだらしない選手が多いのですが、松浦先生はそのようなことを絶対許しませんでした。卒業後、幸平と私だけで公共の場にでることも多いのですが、そのような時、常に松浦先生の教えを心に臨んでいます。

それにしても盛岡農業高校は素晴らしい学校です。私の心の中に実業校を軽くみる意識が全く無かったと言えば嘘になるのですが、実際に入学して生徒や先生方、校風に接してみると素晴らしい学校であることが分かりました。命に直接接することを学んでいるからなのでしょうか、物事にいい加減に取り組んだり、ふざけて取り組んだりする若者を見るときの嫌な感じが全くありません。質実剛健という言葉がこれほど合う高校を私は他に知りません。

盛農スキー部(アルペン)は宮野莉胡さんと幸平だけのたった二人だけの部です。松浦先生はご自分のご家庭があるにも関わらず二人を連れて全国あちこちに練習に連れていってくださりました。小汚い男子と一緒の道中はリコさんにとって迷惑だったでしょうが、幸平にとっては良い思い出となったはずです。

実は、松浦先生には大学進学後もお世話になり続けています。この大恩をいつかお返しすることができるようにしたいです。

日体大スキー部

​日体大スキー部部長の 竹腰 誠 先生に初めてお会いしたのは、幸平が高2のジャパンパラ競技大会の時だったと思います。当時日体大スキー部に所属していた本堂選手の付添いでいらしていて、声をかけていただきました。高2で、大学進学のことは現実的に考えられず漠然とした不安だけが膨らんでいた時のことでした。竹腰先生は大学選びの大切さを教えてくださり、日体大に進学するのであれば歓迎するし、他の大学に進学する場合でも紹介してくださるとおっしゃっていただき、随分と心の不安が晴れたものです。

その後、盛農の松浦先生も日体大出身だったご縁もあり、竹腰先生にお世話になることになりました。言うまでもなく日体大は多くのオリンピック・パラリンピック選手を輩出する名門です。スキー部にも日本のトップ選手でありオリンピック選手である小山陽平選手も在籍していました。竹腰先生はその名門のトップとしてスキー部を引っ張る重責を負っておられるわけです。

上のユーチューブ動画の最後のほうでお話しをしているのが竹腰先生です(先生の後に幸平もちょろっと写っています)。パラの活動を安心して行うためには、各単位の先生との綿密な調整が必要なのですが、大勢の部員の中の1人でしかない幸平のために先生自ら調整を図っていただきました。言うまでもないことですが幸平が安心して大学生活を送り、そして卒業できたのは竹腰先生のおかげです。

それにしてもコロナ禍がうらめしい。本当はもっともっと大学にお邪魔して部の活動や大学行事を見学したかったですが、それが叶わなかったのが本当に残念です。

(後日談)私は「スキーの科学」(洋泉社,2015)という本を愛読していたのですが、なんとこの本の著者は竹腰先生!スキー、特にアルペン競技で早く滑る科学的条件の記述は他の本と一線を画しており、なるほど、大学教授の書いた本だったのか、と後から納得した次第です。

パラチームヘッドコーチ

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​ 年度が遡りますが、中2の時、ジャパンパラアルペンスキー競技大会の前走を務めさせていただくこととなり、勝手がわからないまま長野の八方尾根スキー場に向かいました。お昼すぎに受付の体育館に着き緊張しながら入口に向かった私たちを満面の笑みで迎えていただいたのが野島 弘ヘッドコーチでした。その笑顔にどれほど救われたことか。おかげで緊張もほぐれ、医師の診断によるクラシフィケーションも無事受けることができました。

 翌日から大会進行が始まり、初日は大回転競技です。会場に行ってみてびっくり。スタートから少し先が落ち込んでいて、そこからかなりの急斜面。これは大変なところに来てしまったと半分後悔しました。そこに野島コーチが来ていただき、幸平に付ききりでラインどりを指導してくれました。

 それで本番。幸平関係で最も緊張したのはこの時と中学ハンドの他校合同合宿の二回です。緊張で喉がカラカラになりました。その難斜面を幸平は見事完走、無事前走の役目を果たすことが出来ました。

 野島コーチはその年で退任されることが決まっていたので、ご指導いただけたのはこの数日だけだったのですが、おかげで最高の一歩を踏み出すことができ、心から感謝しています。野島コーチは元々はチェアの選手で、ヘッドコーチ退任後もチェアスキー普及の重責を担ってご活躍中であり、メディアでお見かけするのもしばしばです。また、お会いしたいと思っています。

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​ 野島コーチの後任が志度一志ヘッドコーチです。志度コーチは安比高原所属のSIAデモ出身というすごい経歴の持ち主で、しかも生まれは岩手のお隣の秋田県という東北人。パラナショナルチームに若手育成枠として入れていただくにあたっては、岩手まで何回もお出でいただき、パラアルペンの活動についてご説明いただきました(普通はここまでやる義務はないのをご厚意で説明していただいたのが今になって分かります)。

 誤解を恐れずに言えば、岩手と東京では大きな所得格差があると思います。ともするとナショナルチームだから経費がかかって当然みたいに東京水準で事が進むことが多いのですが、志度コーチはその辺を肌感覚で分かっていて、私たちに過度の負担がかからないように工夫してくださる繊細な心の持ち主でした。

 志度コーチと一緒に指導いただいたのが沼 岳央コーチです。沼コーチはそのグイグイくる性格をもって幸平のことを厳しく指導していただきました。私にも積極的に話しかけてくださり、現在の問題点などを教えていただいたものです。また沼コーチはオーストリア在住の方で外国におけるマナーも幸平に指導していただいたようです。幸平は嬉しそうにスパゲティの食べ方を教えてくれました。両コーチはピョンチャンパラで退任されましたが、志度コーチ、沼コーチにもまたお会いしたいものです。

 

 スペースの関係で割愛せざるを得ませんが、コーチのほかにもサービスマン、トレーナー、連盟職員の方々などお世話になった方へのお礼は書ききれません。また、現ヘッドコーチの石井沙織ヘッドコーチへの感謝は言わずもがななのですが、現在進行形の話ですので、時がきたときに改めて感謝したいと思います。とにかく、幸平は多くの方の力添えを得て頑張っています

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