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2014年(H26、中1)

 スキー競技は危険と隣り合わせで、本格的に競技をさせることに抵抗がありました。でも幸平はスキーをどんどん好きになっていき、療育センターの先生のとりなしもあり、ジャパンパラアルペンスキー競技の前走を務めるチャンスを得ました。そこで目にした小池さんや三澤さんの滑りにすっかり心をうばわれ、ますますスキーにのめりこんでいくことに。その後、山形県の赤倉スキー場で開催された第43回全国身体障害者スキー大会に白藤先生(療育センター)と一緒に参加、徐々に競技の道に入っていくことになりました。

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2015年(H27、中2)

 昨年のジャパンパラで前走をさせていただいたからなのか、あるいは、どなたかに口をきいていただいたからなのか、そこはわからないけど、ジャパンパラナショナルチームの国内合宿に体験参加させていただくことに。矢巾ジュニアで練習していたので、練習の流れや作法のようなものは分かっており、そこはプレッシャーを受けないで参加できたのは私達にとってラッキーでした。

​ 先輩方にも幸平の存在を知ってもらうことができ、特にも小池さんには付きっきりで指導してもらい、幸平の中でパラアルペンはますます大きなものに変わっていきました。

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2016年(H28、中3)

 一定の実力ありと判断されたのか、この年の9月に日本障害者スキー連盟から強化指定(若手育成)を受けることに。

 若手育成枠には、幸平入れて3名が指定され、11月に育成チームでオーストリアで海外合宿を組むこととなりました。親子ともども海外旅行などしたことなく、何から何まで分からずとまどうばかり。道具を車に乗せて岩手から成田に向かったのですが、駐車場が満車で入れず飛行機に乗り遅れたらどうしようとか、途中で財布を落としたらどうしようとか、不安の種はつきませんでした。

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2016-17(H28-29、高1)

 盛岡農業高校に進学し、本格的に競技の指導を受けることとなりました。それまで知らなかったことをどんどん教えてもらい、徐々に競技者の顔に。

 この年は、白馬八方尾根スキー場でワールドカップが開催されることとなり、地元枠を使って幸平も出場できることに。もちろんパラの世界でももちろんすごいことなのですが、周囲の大人の頭には健常者のワールドカップのことがあるものだから、コウヘイがワールドカップに出る?オカベやキミノブやケンタローといっしょか!と大騒ぎに(笑)。矢巾町のスキー協会を中心に応援団を作ってみんなで応援にいきました。

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2017-18(H29-30、高2)

 ピョンチャンパラ代表内定者の発表の日、発表予定時刻に更新されるであろう携帯画面を見つめ、通勤帰途の一関駅で落ち着かない時を過ごしていた。落選する可能性も十分あると言われていたので、なおさらドキドキしていた。画面が切り替わり、幸平の名を見つけたときの喜びは言葉に表せない。まずは松浦先生に電話をいれた。高校でもチェックしていただいていたようだが、大変喜んでくれた。スポーツ強豪校ではなく普通の公立高校である盛岡農業で、長期公欠がとれたのは授業を工夫していただいた各先生のおかげであることは言うまでもないが、労力をかけてその下地を整えてくれたのは松浦先生だ。松浦先生なくして高橋幸平という選手が存在できなかったことは断言できる。

 その後は目の回るような忙しさだった。各方面への挨拶など、校長先生に大変お世話になった。私の意識としては日本代表ではなく盛岡農業高校代表だったと思っている。

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2018-19(H30-31、高3)

 何のスポーツでもそうだけど、本気でやっていくには家族の協力が必要になる。特にスキーは経済的負担が他のスポーツとケタ違いで、小学生の頃は山のようにいた選手が、高校生まで競技を続けるのは、ほんの一握りの選手だけ。選手に視点をおけば才能と実力によるふるい落とされ、親に視点をおけば細る脛へのやせ我慢の結果と言い換えても良い。少ない選手は、高校の別に関係なく大切に育てられる。盛岡農業は盛岡中央、盛岡三高と行動を共にすることが多く、伊東先生、瀬川先生には実の顧問同様お世話になった。

 例年、県高総体の時期には海外遠征が組まれていて出場することができない。最終学年であるこの年も当初は出場できなかったのが、私の念が通じたのか海外レースのスケジュールが変更になり、出場できることになった。お世話になった先生方に3年間の努力の結果をお見せすることができた。当日は岩手県スキー連盟、日本障害者スキー連盟のお計らいで日本代表ワンピで出場させていただいた。最後を締めることができて本当に良かった。

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2019-20(R1-2、大1)

 この年のジャパンパラでついについに初優勝。強者を退けての優勝は人生初。こみあげるものがあり、現地でさめざめと泣いた(私が。幸平はいたって普通)。このへんのウエットな背景は別項(21-22ホームページ表紙の応援の言葉)をご覧ください。

​ この時は4戦中3勝。全く歯が立たなかった拓さんいにライバルとして認めてもらえるところまで登ってくることができた。

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2020-21(R2-3、大2)

 この年、日体大の北海道合宿に参加できました。場所は富良野スキー場。合宿開始の11月末時点では北海道でも滑走可能なスキー場は数えるほどで、富良野には全国からレーサーが集まっていました。中には岩手県の宮本選手も。合宿終了時の12月末時点では写真のような状況。あり余るほどの雪でまるでモーグルの練習みたいになっています。​通常の部活動トレーニングでは顔をあわせている仲間ですが、雪上練習はなかなか予定が合わず参加できなかったので、参加できてよかった。

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2021-22(R3-4、大3)

 パラリンピックイヤー。幸平を含む一部メンバーだけがコロナの恐怖を抑え込んで長期遠征を決行し、リレハンメル世界選手権に出場。それはパラリンピックで勝つためには必要と考えたから。ただ、本気モードの海外勢に対し、日本チームはサービスマンもいないトホホな状況。幸平はハードパックバーンに手も足も出ず(これは幸平の責任)。パラリンピック直前に全員参加の国内合宿、豪雪時に高速系練習しての転倒しての負傷。北京は人工雪のハードパックバーン。気合で最終種目SLに出場。病み上がりでなければ入賞できたかも(もちろん、タラレバの話)。

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2022-23(R4-5、大4)

 今シーズンは滑りを大改造。そのためシーズン前半はメロメロの成績で、外からみていると引退すら視野に。でも本人は日和らずに改革を敢行し、シーズン後半は復活の手ごたえ。自分の過去の滑りを全否定して改造を敢行するのはなかなか出来ないことです。これを続けることができていれば、、、。本人はどれだけ周辺環境が悪化しようが前を向いてやることをやるタイプの人間だから心配していないが、私からすれば東京オリパラ談合の件といい、真摯に取り組まない大人のせいで、真摯に取り組んでいる選手の可能性が潰されるのは悔しくてたまらない。そのような中、ジャパンパラ完全勝利は少しの救い。

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